宮城谷昌光の三国志
最近、宮城谷昌光の「三国志」を読んだ。(二巻までですが。)
三国志ものは、大体、黄巾の乱から始まっているものが多いが、宮城谷さんの三国志では、後漢の第四代皇帝のあたりから話が始まっている。第四代から80年後の第十二代霊帝で漢王朝が滅ぶことは決まった(実際は第十四代皇帝が曹操の息子に禅譲して滅んだのだが。)が、この間の王朝が腐敗して崩壊していく様子や、その中での政治的なかけひきなどは、自分がその時代に生まれていて、政治闘争に巻き込まれてしまったら、どうするだろう。などと考えて読むと非常におもしろい。
無能な皇帝が次々と生まれて、欲にかられた外戚(皇后の一族)や宦官が私利私欲のために、朝廷を壟断していく中で、段々に朝廷は腐っていく。正しいことを訴える者が死罪にされたり、よい政治をするのだが、政治的には本流ではないものが、権限をもってしまうことで、それが次の悪を生み出す原因になってしまう。
それでも何度かは、朝廷を建て直すチャンスはくるだが、決まって無能なものや、欲望にかられて動くものにつぶされてしまう。
過ぎ去ってみれば、次の時代を呼ぶために、古い政治を腐らせている時代だったのかと思うが、同時代に生きている人には天意はあるのだろうか?と、不安にさせる時代だったと思う。
このような時代に正しい心を持っている生きている人は、何パターンかの生き方があった。大きく分けるとすると、
①在野にいて政治にはタッチしない。弟子の養成につとめる。
②政治闘争にはタッチしないで、政治の中で自分の持ち場で最高の仕事をするように務める。
③悪を滅ぼすべく、政治の中で戦う。
となる。
結果をみると、③の方針を取るといずれは自分が滅ぼされる。②をとると、知らず知らずに悪に加担することがある。と、なると①がよいように見えるが、それもなんともやるせない気持ちになる。
だから、その後、④古い政治を滅ぼし、新しい時代を創る。という選択をする者が現れ、戦国時代に入っていく。時の権力者に天意がなくなると、そのような時代がくるのだと思う。
朝廷が腐敗していく過程においては、口うるさく進言してくる臣がいて、その言葉を選択しないで、自分に甘い言葉を吐く臣の言葉を選んでしまうトップがいて、その”結果”を見せられてから自分の選択が間違っていたことを気づかされる。しかし、”結果”がでてしまってからではもう遅い。
本人にその気がなくても、政治的な闘争に巻き込まれることもある。だから闘い方を知っておくことも大切だ。が、心は常に清明に保っておく努力は必要だ。もし、我々が政治闘争に巻き込まれ、上記の①~③の選択を迫られるとき、立場によってどの選択をするか?は変わってくると思うが、天の支援を受けられる自分つくりだけは常に心がけておくのがよいと思う。


“宮城谷三国志”はやはり一味違う
困窮の時間をどうすごしたかが人の成否を決める